私のSBNR

SBNRは、spiritual but not religiousの略で、「スピリチュアルだが宗教は信じていない」と訳される。明確な定義は多分存在していない。多数のSBNR層の人間がいて、それぞれで定義、スタンスが異なっているのではないだろうか。

私のスタンスを記してみたい。

 

私は宗教は基本的には否定派である。他人の信仰を否定するつもりはないが、私は信じていないという立場。しかし、「祈る」という行為の効果は認めている。これは一見矛盾しているようにも思えるだろう。

祈るという行為が、ときに大きな力を発揮することは私自身も経験がある。
私の理解では、「祈る」という行為を通して生じた覚悟が結果に影響を与えている場合と、超越した力に結果を委ねる境地によってあらゆる結果を肯定できるようになる場合があると思う。

つまり、超越した力の存在を信じて祈るという行為が、結果を変えたり結果の解釈を変えているのであって、「本当にそうした力が存在しているのかは関係ない」というスタンスなのです。

だから、祈る行為は一定の効果があるし、その効果を得るためには必ずしも信仰の必要はないと思っています。

 

これまでスピリチュアルに分類されてきた行為も脳科学、心理学的な観点から解明が進んできている例もあります(瞑想のマインドフルネス的な効果など)。スピリチュアルな行為は、宗教と切り離してその効果が実証されつつあるといえるでしょう。

 

宗教は歴史的にみても、人間の社会に大きな影響を与えてきた。それは、良い意味でも悪い意味でも。良い意味では文化的な発展や、道徳として機能してきた面も挙げられるだろうし、先程の祈りの効果などもあるだろう。

悪い面では、一部のカルト的な新興宗教が社会に与えた損失は無視できないし、膨大な信仰者を誇る宗教内でも、腐敗した層が私腹を肥やすために集金じみた行動をとっているような例もある。あとは、人類史における戦争の多くは宗教的な対立が原因のものも多い。

 

私が宗教というパッケージに対して特に疑問を感じるのがお金。宗教にはお金がついてまわる。もちろん団体の維持にはお金は必要だろう。しかし、「お金を出せば救われる」といった教義が謎。こうした部分に強く反発を感じている。

仏教に喜捨という考え方がある。これはこれで脳科学的、心理学的にも効果が認められる行為だ。しかし、これは自ら捨てることに意味がある。他人が教義をかたって勧めている場合は、搾取の構造を感じる。(仮に搾取が事実だとしても、それを本気で信じた人が救われているならそれはそれでいいのだろうか・・・?)

 

こうした理由で、私は宗教というパッケージが好きではない。
宗教というパッケージを使わなくても、科学的に再現性のある方法で幸福感を高めることができる。私はその方法を追求するという意味ではスピリチュアルだが、決して特定の宗教を信仰しているわけではない。
私が喜捨の心で投げ売った私財は、宗教団体の活動資金ではなく、自らが認めた目的に使用されることを願っているのである。